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2009年3月

ロッキード U-2/TR-1

 偵察衛星が実用化される以前に旧ソ連上空を偵察飛行するために生み出された機体U-2であるが、残存機が少なくなった1966年にU-2を発展させた一回り大型な機体であるU-2Rが追加製造されている(R型以前の機体は1989年に全機が退役した)。
 U-2Rは当初、米空軍とCIA(米中央情報局)が半数ずつを保有し使用していたが1974年にCIAはU-2を使用した偵察任務から撤退し、現在は全機が空軍へ移管されている。
 1978年にはU-2Rの機体を流用した欧州用戦術偵察機TR-1A計画がスタートし、偵察機器を戦術偵察用に積み換えた機体がTR-1Aとして採用されている。
 なお1989年にTR-1Aのうち1機のエンジンをジェネラルエレクトリック社製F118-GE-101に換装したところ航続距離と上昇限度の増加が認められたため、1998年までに残存全機がこの換装を実施している(そのため現在米軍が保有する機体は全機がU-2S/TU-2Sとなっている)。

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ロッキード AC-130スペクター

ベトナム戦争中、密林内に出没するゲリラ兵掃討に手を焼いた米軍は、輸送機を改造した地上掃射機(ガンシップ)の製作を実施した。最初は第二次大戦で活躍した老朽輸送機C-47の胴体左舷側に7.62ミリミニガン3基を搭載した機体をAC-47D(最初の呼称はFC-47)として採用、ベトナムに展開した。その後ガンシップの有効性が確認されると、さらに大型の C-130A輸送機を改造したガンシップを投入することにした。
 1967年にライトパタースン空軍基地で開始された原型機改造作業は2ヶ月という短期間で終了し、同年9月21日に実戦評価のため南ベトナムへ送られた。ベトナム到着からたった3日後には最初の戦闘作戦飛行を実施している。その後AC-130シリーズはC-130Eの機体を使用したAC-130E、C-130Hの機体を使用したAC-130Hと進化していき、H型に至っては105ミリ曲射砲まで搭載する『空飛ぶ砲兵』として活躍した。
 ガンシップ全体に言えることだが兵装は全て機体左舷に集中しており、作戦中は目標地域上空を左旋回で円を描きながら飛行し、地上へ向けて砲撃のシャワーを浴びせる(特に7.62ミリミニガンや20ミリバルカン砲の射撃スピードは凄まじく、機内乗員は空薬莢をシャベルで機外へ捨てる作業を行わないとならないほどであった)ようになっている。そのため操縦席には左舷下方を照準できる火器管制装置が搭載されている(なぜ左なのかと言うと、機長席が左側にあるからである)。当機は長大な航続力と大きな搭載能力から長時間に渡る作戦行動が可能であり、ベトコンに追いつめられた米兵達にとって、ガンシップによる掩護射撃は非常に頼もしく『神の鉄槌』そのものであったと言えよう。
 1986年度予算からはAC-130Hの強化版AC-130Uの開発も始まっており、ロックウェル社の手により攻撃力を強化された機体が現在も生産されている。

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マクダネル F-101ヴードゥー

 長距離侵攻や護衛任務に使用できる機体を求めて出された1946年の米陸軍航空隊による要求に応えてマクダネル社は設計提案をおこない、翌年2月にXP-88原型機2機の開発契約を得ることになった。XP-88の原型1号機は1948年10月に初飛行を行ったが、アフターバーナーを搭載したウェスチングハウス社製J43エンジンを搭載した原型2号機初飛行は1号機初飛行から2年ちかくも経ってのことであった。
 XP-88原型2号機は1号機よりも優れた性能を示し緩降下で音速を突破する実績を見せたが、核兵器の発達による米軍戦略方針の転換や軍事予算の削減に伴って1950年8月に開発計画は中止された。
 しかし核兵器が発達しても、まだその運搬方法は大型爆撃機に頼っていた米国戦略空軍(SAC)は長距離護衛戦闘機を必要としており、1951年1月に「総合作戦要求仕様101」により各航空機メーカーの意見を採り入れることとした。この要求仕様書に対して各メーカーは様々な意見を寄せたが、最も望ましいと考えられたのはマクダネル社によるXP-88を元にした構想であった。
 このマクダネル社が提出した構想は1951年10月から開発作業が開始され、F-101と名付けられたが朝鮮戦争の終結や予算支出の凍結などで一時は開発中止寸前まで追いつめられた。しかし1954年9月に初飛行した原型機が音速を超える速度性能を示すと米空軍は試験用機体3機の追加発注を行い、無事に制式採用へと持ち込めたのである。
 当初はSACの戦略侵攻/護衛戦闘機として就役した当機だったがSACでの任務期間は短く、もっぱら米本土の防空戦闘機として使用された。また北米防空の指揮をNORAD(北米航空宇宙防衛司令部)から受けるカナダ空軍も当機を採用し、1980年代に入って CF-18へ交代するまで使用された。戦闘機として戦場に出ることは無かった当機だが、偵察機型はベトナム戦争に参加しかなりの好成績を挙げている。

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ブレゲー タオン

1953年にNATOが示した新型軽戦術支援機(攻撃戦闘機)の仕様に基づいて仏ブレゲー社が製作した機体。後退角のついた主翼を持つ中翼単葉機で、胴体部分は面積法則(エリアルール)が適用されていた。また主脚は未舗装の滑走路から離着陸が可能なよう設計されている。
 当機は設計審査に勝ち残り原型3機の発注を得ることが出来たのだが、伊フィアット社(後のアエリタリア)が製作したG91との比較にて僅差で破れ、どこの国も採用しなかったため2機が製作された時点で開発は中止された。
 空力的に洗練された原型2号機は1958年に1,000km周回コースで1,046.65km/hの国際速度記録を達成するなど高速性能の優秀さをうかがわせる機体だっただけに、制式採用されなかったのが惜しく思われる。

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スチンスン L-5センチネル観測機

スチンスン社のベストセラー軽飛行機「モデル・ジュニア」の縮小型「モデル105」をベースにした軽観測機。民間向け「モデル10-A」(「モデル105」の搭載エンジンが異なる型)を米陸軍が審査(このときの審査名称はYO-54)した結果、わずかに改良を施した機体をO-62の名称で発注することになった。この機体は後にL-5センチネルと改称され1942年から納入が開始されている。
 オーソドックスな支柱付きの高翼単葉機で、ライカミング社製の水平対向エンジンを搭載しており、グラスホッパーシリーズ(L-2からL-4までの軽観測機は全部がこの愛称だったためこう呼ばれる)と共に米軍の軽観測機として活躍した。
 大戦中は米陸軍や米海兵隊で観測機・軽輸送機として多用された他、英国へもある程度の数が供与されており、戦後も朝鮮半島(米軍)やビルマ(英軍)などの戦場で活躍した。朝鮮戦争の際、米海兵隊所属機の中には航空母艦上から運用された機体も存在する。戦役を生き残った機体は1960年代に米空軍の汎用連絡機やグライダー曳航機として使用された。

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デ・ハビランド DH82タイガーモス練習機

 1925年に初飛行したデ・ハビランドDH60モス(エンジンにデ・ハビランド社製ジプシーを搭載していたため俗にジプシーモスとも呼ばれる)練習機が民間用練習機として成功すると、当然のように英国空軍はDH60の軍用型開発に乗り出すことにした。
 DH60Tモストレーナーと名付けられた軍用型は民間型に比べて構造を強化され、より高い全備重量で運用できるようになっており、胴体下に訓練用9kg爆弾の搭載が可能となっていた。しかし緊急時脱出の際に前操縦席周りを取り巻いた主翼支柱が邪魔となるため、1931年に提示された仕様書T15/31に応じて開発される新練習機ではその点を改修することになった。
 1931年10月に初飛行した新練習機の生産前機には前作と同じDH60Tの番号が付与されたが、愛称はタイガーモスと変更された(後に機体番号もDH82と改称された)。
 英国空軍の拡張計画に従って運営されていた初等飛行学校などに多数機が導入されたほか、ノルウェー、スウェーデン、ポルトガルの航空機メーカーとカナダのデ・ハビランド・カナダ社でもライセンス生産されており、第二次大戦が始まると英国内で使用されていた民間型も英国空軍の通信用、訓練用に徴用された。
 多数が製造された当機は戦争が終結すると余剰機としてベルギー、フランス、オランダ軍等に譲渡されたほか、多数機が民間市場に流れ、練習機やスポーツ用機、農業用機などとして使用されており、現在でも飛行可能な状態に維持されている当時のオリジナル機体が数多く存在する。

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