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2009年2月

ベル XP-77試作戦闘機

米軍は第二次大戦開戦により将来航空機を製造するために必要となる軽金属資源(主にアルミなど)が入手困難になると予測し、これら『戦略物資』を使用しない航空機の開発を行った。いくつかのメーカーが非『戦略物資』を使用した機体を開発した(例えばステンレス鋼を使用したバッド社の コネストガ輸送機など)が、当機体もこの開発計画に基づき木製機として設計されている。
 ベル社ではP-39を開発した際に検討した機体形状案の中から、運動性に優れた軽戦闘機タイプのものを選択し1941年10月から原型機の製作を開始した。航空レース機のような超小型の機体で、ベル社お得意の3車輪式降着装置を持つ木製戦闘機原型は1944年に完成、同年4月に初飛行を行った。
 あまりに後方へ設置された操縦席のため前方視界が悪く、木製構造と貧弱なエンジンのため重量過多で武装を全て外しても予定された性能を発揮できず、さらにエンジンの振動が激しく(重量軽減のため防振装置なしで直接機体にエンジンを取り付けていたため)、飛行試験に臨んだテストパイロット達は一様に扱いにくい機体であると報告した。
 軍が予測していた軽金属不足がおこらず、また他の高性能戦闘機が次々と完成していく中、当機は1944年末に開発中止となっている。

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中島 九七式一号(三号)艦攻

昭和10年海軍は中島・三菱両社に十試艦上攻撃機の競争試作を命じ、中島案を昭和12年、九七式一号艦攻として採用した。今までの複葉・固定脚の旧式な艦攻を脱皮し、日本海軍初の低翼単葉全金属製引込脚の近代的な設計の機体で、世界的に見ても当時の艦攻の最先端を行く機体であった。ちなみに三菱案の固定脚設計の試作機も同時に九七式二号艦攻として採用されたが、こちらは総生産機数150機程にとどまっている。
 中島飛行機では当時並行して開発中だった10試艦偵に採用した可変ピッチプロペラや密閉式風防、上方折り畳み主翼などを当機にも流用したほか、軍用機初のファウラー・フラップ(蝶型フラップ)を採用するなど新機軸も盛り込まれた機体だった。
 昭和13年「光」三号発動機を装備した機体の生産が軌道に乗ったため、中島飛行機は以前から搭載を希望していた「栄」発動機の実用化に目処が付いたとして同発動機を装備した機体の試作を行った。翌年海軍による審査が行われ、速度や上昇力の向上、従前の機体と変わらぬ優秀な操縦性・安定性が認められ「栄」一一型搭載機も九七式三号艦攻として採用された(これにより「光」発動機搭載型は九七式一号艦攻と呼ばれるようになった)。
 一号と三号の機体設計に差はないが、発動機直径が異なるためエンジンカウリング部の形状が異なり、この点で容易に識別ができる(三号はカウリングが細くなっており、若干空力学的に洗練された形状をしている)。
 本機は日華事変後期から太平洋戦争開戦時のハワイ空襲を経て中期頃まで母艦搭載機として活躍しており、後継機である艦上攻撃機「天山」が登場後も陸上基地などから索敵哨戒・海上護衛などの任務に従事し、戦争末期には特攻機としても使用されている(終戦時残存機は134機)。

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アンブロジーニ S.7戦闘機/戦闘練習機

第二次大戦前に高速連絡用の複座単葉旅客機としてセルジオ・ステファヌッティ(Sergio Stefanutti)が設計したアンブロジーニS.A.I.7を原型とする戦闘練習機(ちなみに、モデル名のS.A.I.はアンブロジーニ社の旧社名イタリア航空機社(Società Aeronautica Italiana)の略で、同社は第二次大戦中はこの旧社名をモデル名に使用していた)。
 第二次大戦勃発直前の1939年8月にS.A.I.7は100km周回コースで国際速度記録を樹立し、この記録はイタリア空軍当局に大きな感銘を与えた。そこでこの機体を発展させた軽戦闘機と戦闘練習機が生産されることになり、戦闘機型については5,000機(S.A.I.207が2,000機、S.A.I.403が3,000機)もの大量発注が行われた。最終発展型とも言えるS.A.I.403は750馬力の倒立V型エンジンを搭載して650km/h(設計値)もの速度を発揮する機体となっており、洗練された機体設計の優秀さをうかがわせる。
 しかしイタリアが休戦するまでに製造されたのは戦闘機型16機、戦闘練習機型10機のみで、ほとんど使用されることなく終わっている。なお戦後に発動機を換装した機体が製作されており、イタリア空軍で1956年まで戦闘練習機として使用されている。

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ロッキード SR-71ブラックバード

米国の戦略偵察飛行はゲイリー・パワーズ事件(ソ連領空にてゲイリー・パワーズが操縦する U-2偵察機が撃墜された事件)の後1960年に一度停止された。しかしロッキード社が開発したマッハ3偵察機トリオ(A-12、YF-12、SR-71)が完成したことにより1964年に再開された。
 このSR-71は1968年から米空軍にて運用され始め、カリフォルニア州ビール基地を中心に、嘉手納基地およびミルドンホール基地に展開する海外分遣隊にて運用され冷戦時代の戦略偵察任務の中心として活躍した。
 超高空を高速で駆け抜けるためほぼ撃墜は不可能であったが、偵察衛星の発達やSR-71運用コストの増大から現在では第一線を退いている。なおSR-71は全部で32機が生産された。

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サーブ 105

SAAB社が民間用または軍用として複数の用途をこなせる軽ジェット機を製品系列に加えるため自社費用負担で開発した機体。民間用としては4座のビジネス機、軍用としては複座の練習/攻撃機として使用できるよう設計された。
 1959年に開発に着手したが搭載するエンジンとして小型でしかも強力なターボジェットエンジンが無かったことから作業は遅れ、ようやく適当なエンジンとしてチュルボメカ社製オービクスエンジン(推力745kg)を選定できたことにより1963年に原型機が初飛行した。
 スウェーデン空軍は当機を練習・連絡機や軽攻撃機として使用するためSk60の呼称で採用、150機ほどを導入しているが、国外向けにもGE社製J85エンジンを搭載したモデルを販売している。国外の顧客としてはオーストリア空軍が当機を高等練習機/武装練習機として採用しており、現在もスウェーデン茨城 求人(ソープ)空軍とオーストラリア空軍で現役の機体である。

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ユンカース W34輸送機

 ドイツの老舗航空機メーカーであるユンカース社が開発したF13輸送機は、第一次大戦終結前後当時の輸送機として成功を収めた。その後、第一次大戦に敗れたドイツは航空機の開発を制限されたため、ユンカース社はソビエトやスウェーデンと契約を結び、国外にてF13の改良型開発を行った。
 旧式ユンカース機の特徴である波形ジュラルミン鋼板張りの機体は、W33と名付けられ1926年に初飛行を行い、各国へ貨物/郵便/旅客輸送機として販売された。しかし搭載された液冷直列エンジンは出力が低いため、出力が高くメンテナンス性にも優れた空冷星形エンジンを搭載する変形モデルがほぼ同時進行で開発された。この空冷モデルがW34である。
 200機弱ほど生産されたW33とは異なり、W34は3,000機以上(うち軍用が約2,000機)が生産されており、ドイツ空軍は終戦まで当機を輸送任務や大型機操縦士の養成に使用している。
 W34も諸外国へ輸出されているが、スウェーデンで製造された機体(K43と呼称された)は、ボリビア・パラグアイ間で争われたチャコ戦争(Guerra del Chaco:1932~35)やコロンビア・ペルー間のコロンビア・ペルー戦争(Guerra Colombo-Peruana:1932~33)などで爆撃機として使用されており、ブッシュ・ボンバー [Bush Bomber]の愛称で呼ばれることもあった。

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