« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

新明和 PS-1/US-1

 第二次大戦で優秀な飛行艇を生み出した川西航空機技術陣が新会社である新明和の元に結集し設計された対潜飛行艇。プロジェクトチームは1953年ごろから設計研究を行っていたが、海上自衛隊の新型海上監視/対潜作戦機PS-X要求により契約が締結されたのは1966年のことであった。
 すでに機体設計などは固まっていたため翌年には原型機が完成、強力なBLC(動力境界層制御)システムと新設計の艇体により高いSTOL性能と凌波性能を示し世界最高水準を行く飛行艇であった。エンジンはジェネラルエレクトリック社製のT-64-10ターボプロップエンジンを国内ライセンス化したものである。
 1970年代に入ると対潜哨戒機PS-1の派生型として、陸上からでも離発着できる救難飛行艇US-1が製作された。後にUS-1はエンジンをT-64-10Jに換装したUS-1Aへと改良されている。現在では P-3Cオライオンが就役したことによりPS-1は全機退役しているがUS-1Aは第一線で今も活躍中である。
----- 2005,02,25追記 -----
 2005年2月にUS-1A規格で製造された最後の機体が海上自衛隊に納入された。以降は改良が加えられたバージョン(US-1A改:海上自衛隊ではUS-2の仮称が与えられている。主に発動機や操縦系の近代化がメインで、搭載量や航続距離、上昇限度、最高速度などの向上が行われる予定)へ製造はシフトしていくが、メーカーでは輸出も考慮に入れシェア拡大を目論んでいるようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ポテ 63戦闘/爆撃機

 ヨーロッパでは第二次大戦開戦前に双発重戦闘機の開発が流行した事があるが、その先駆けとして位置づけられる機体。1934年にフランス航空省が出した要求書に応え開発されたもので、原型1号機は1936年4月に初飛行した。フランス航空省では当機に「長距離護衛機」「夜間迎撃機」「戦闘指揮機」と3つの役割を持たせるよう意図していた。
 軍需産業国有化により1937年6月にポテ社のメオールト工場は国有企業SNCANに引き継がれる事となったが、この工場にて戦闘機型ポテ630と631が生産開始された。また双発の大型機体であるため爆撃型や偵察型などの派生型も開発されているが、第二次大戦勃発のため製作機数は多くない。
 高い運動性能や飛行特性を持ち、整備も容易な機体であったが比較的低出力のエンジンを使用していたので最高速度は高くなく戦闘機としては能力不足であり、戦闘機型も基本的には地上攻撃などに使用されることが多かった。
 開戦前に締結された幾つかの輸出契約によりルーマニアやユーゴスラビアへ少数機が輸出されているが目立った活躍はしていない。なおドイツ軍侵攻時の戦闘に生き残った機体は、ドイツ軍やビシーフランス軍に使用されており、占領された工場で生産途中だった機体もドイツ軍の指揮のもと完成させられ、ドイツ、イタリア、ルーマニアなどに分配されている。
 余談ながらポテ637(偵察型)のうち1機は1939年9月8日に西部戦線でドイツ軍機に撃墜されているが、この機体が西部戦線において初めて撃墜された連合軍機とされている(他説もある)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ブラックバーン ロック艦上戦闘機

英海軍初の急降下爆撃機となったスキュアから発展した複座艦上戦闘機。当初の計画では敵重爆撃機を側面から攻撃することを前提にしていたため、通常の戦闘機のような前方固定機銃を持たず、胴体背部にブローニング機銃4丁を持った動力旋回銃座を搭載している。しかし実際には最高速度の不足から敵重爆撃機を追撃補足することは困難であるとして、対重爆攻撃任務は構想から外されることになった。
 仕様書O.15/37により当機の発注を受けたブラックバーン社であったが、スキュアの生産にかかりきりであったため、当機の製造はボールトンポール社がおこない原型1号機は1938年3月に初飛行した。動力銃座を搭載したことにより、スキュアに比べての性能低下が心配されたが、急降下性能などの低下は認められなかった。ただし4機だけ製作されたフロート装備の水上機型は抵抗増加による速度低下や安定性悪化など酷い機体であったようだ。
 1940年頃から生産型が艦隊に配備されるようになったが、艦上運用に難があったため主に陸上基地で使用され英国本土の各基地やバミューダなどに配備されている。そのうち最も当機らしい(しかも航空機として最も異質な)任務としては、ゴスポート基地に配備された機体のうちドイツ軍の空襲で飛行不可能となったものを対空銃座として使用したことがあげられる。空中戦闘ではほとんど役に立たなかった動力銃座が役に立ったケースと言えるだろう。
 艦上戦闘機として失敗作であった当機は改良型や派生型も製作されず、生産の追加注文・補充部品の生産も行われなかったため、1943年には修理部品の不足により現役から引退した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アグスタ A106

イタリアの老舗航空機メーカーであるアグスタ社が製造した小型対潜ヘリコプター。アグスタ社は1950年代のはじめからベル社やシコルスキー社のヘリコプターのライセンス生産を実施して回転翼機製造のノウハウを身につけていたが、始めて自社設計の機体を作るのに際して最初から大型の機体に挑戦せず、まず小型機を作ることにした。
 このとき製作されたA106の原型は1965年に初飛行しているが、量産機生産については1970年代初頭に少数が製造されたにすぎない。この数少ない量産型のうち5機をイタリア海軍が導入し、駆逐艦「インパヴィド」級から対潜ヘリとして運用した。これは艦隊に所属する大型の対潜ヘリを補佐し艦隊全体の対潜哨戒能力を高めるためであった。
 イタリア海軍に納入された機体は民間向け機体同様の2枚羽根ローターの機体であるが、降着ソリに水上用フロートを取り付けることができたり、悪天候時の運用を補助する電子装備が追加されている。主要兵装としては2本の対潜短魚雷を胴体下に搭載できるが、これは対潜爆雷や地上攻撃用の機銃ポッドなどに換装可能である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

F.F.V.S.(国立航空省ストックホルム工場) J22戦闘機

1930年代末に隣国であるフィンランド(対ソ戦)やノルウェー(対独戦)が戦争に巻き込まれるのを見ていたスウェーデンは、中立を保つためにも空軍力の強化が急務と考えた。ところがこの時期のスウェーデン空軍の主力戦闘機は旧式なJ8(グロースター・グラディエーター)が5~60機ほどあるだけだったので、アメリカからセバスキー社やバルティー社の機体を緊急輸入することにした。しかしアメリカは1940年7月に兵器の対外輸出をストップしてしまい、スウェーデンに届いたのは60機のセバスキーEP-1戦闘機(スウェーデンではJ9と名付けられた。 P-35戦闘機の輸出型)のみで、戦力増強としては今ひとつ物足りないものであった。
 そこで他の国からの輸入を打診したところ、ソビエトは旧式な I-16しか輸出できないと回答したため問題外とされ、日本からは 零式艦上戦闘機の改修型を提供してもよいと回答を得たものの周辺諸国が戦争を行っている中での輸入方法に目処が立たず計画倒れに終わっている。ようやくイタリアからCR42Re2000を輸入することができJ11およびJ12(後にJ20と改称)の名称で戦力に取り入れることに成功したのだが、このように外国製兵器に頼っていると国防上問題があるとして自国内でも機体の開発を行うこととなったのである。
 サーブ社と国立航空省ストックホルム工場にてそれぞれ新型機の開発が始まり、 J21とJ22と名付けられた機体は1942年から43年にかけて初飛行した。J21は他国では実用化できなかった推進プロペラ式という珍しい機体であったが、J22はオーソドックスな金属製・合板張りの片持ち低翼単葉機であった。
 オーソドックスながら性能は高い機体で、1000馬力級のエンジン(これは米P&W社のツインワスプエンジンを無許可コピーしたもので、戦後P&W社に対しライセンス料が支払われたらしい)を搭載しているわりに575km/hもの高速を発揮できた。第二次大戦中はスウェーデンの領空を侵犯する米英の軍用機やドイツ空軍機に対して緊急発進(スクランブル)を行い、多数の侵犯機を強制着陸させる働きを見せている。もちろん着陸指示に従わず抵抗を試みる機体もあったわけだが、これらの外国機に対しても当機は互角の戦いを行い、戦後の1952年に第一線を退いた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

空技廠 特殊攻撃機「梅花」

昭和19年、戦局が悪化し艦船や航空機の損失が増加の一途をたどっていたため、本土防衛線死守の観点から資材・燃料・動力・大量生産性・戦法などを再編成した新型機を開発、これを特攻機として使用することが検討された。
 ちょうど当時欧州戦線でドイツが英国爆撃に使用していたV1無人飛行爆弾の戦果が日本にも伝えられてきており、V1ロケットの機体情報も日独軍事同盟の技術協力という形で入手できていたため、V1をベースにしたパルスジェット特攻機「梅花」が戦局の早急回復用兵器として提案されたのも当然の結果であろう。
 川西が開発担当となった機体は主要材に鋼材と木材を用いて、技術力の低い工場・工員でも生産可能なよう簡略化され、搭載するパルスジェットエンジンは帝大航研・海軍第一空技廠・陸軍技研が協力開発することとなった。ドイツのV1は英国本土に対する無差別爆撃が任務であったため精度の高い誘導は必要でなかったが、日本では対艦攻撃が主であったため精度の高い誘導を行うため有人化されており、出撃必死の特攻兵器であった。
 しかし、計画着手が遅かったため基本構想がまとまったのは終戦の半月前であり、終戦までに実機が製作できるはずもなく、幸運にも当機が敵に向かって出撃することは無かったのである。
 ちなみに計画されていた機体案は3種類あり、ジェットエンジンの設置位置(機体上部に背負い式か機体下部に吊り下げ式)などの違いがあった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ロワール 70飛行艇

1932年にフランス海軍から出された長距離海洋偵察/爆撃飛行艇の要求に基づいて開発された機体。1933年12月に初飛行した原型機はグノームローヌ9Kbrエンジン(500hp)を搭載していたが長期間の評価試験により、エンジン出力強化や尾翼設計の変更、機首銃座の廃止が盛り込まれ制式採用となった。エンジンは主翼上に3基が三角形配置されているが、中央の1基は後方へプロペラを向けた推進型となっている(上掲写真は機体中央(後方配置)のエンジンが判別しにくく双発機に見えてしまうことに注意)。
 制式採用となったものの生産型として製作されたのは7機と少数で、原型機を含む全機がカルーパを基地とするE7飛行隊に配置された。1939年に第二次大戦が勃発すると部隊は地中海での哨戒任務に従事することになり、この哨戒任務で半数の4機が戦没した。
 生き残っていた4機のうち3機も1940年6月にイタリア軍がおこなった空襲により破壊されてしまい、最後の1機についてもその後消息が語られることはなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »