« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月

アンブロジーニ S.7戦闘機/戦闘練習機

第二次大戦前に高速連絡用の複座単葉旅客機としてセルジオ・ステファヌッティ(Sergio Stefanutti)が設計したアンブロジーニS.A.I.7を原型とする戦闘練習機(ちなみに、モデル名のS.A.I.はアンブロジーニ社の旧社名イタリア航空機社(Società Aeronautica Italiana)の略で、同社は第二次大戦中はこの旧社名をモデル名に使用していた)。
 第二次大戦勃発直前の1939年8月にS.A.I.7は100km周回コースで国際速度記録を樹立し、この記録はイタリア空軍当局に大きな感銘を与えた。そこでこの機体を発展させた軽戦闘機と戦闘練習機が生産されることになり、戦闘機型については5,000機(S.A.I.207が2,000機、S.A.I.403が3,000機)もの大量発注が行われた。最終発展型とも言えるS.A.I.403は750馬力の倒立V型エンジンを搭載して650km/h(設計値)もの速度を発揮する機体となっており、洗練された機体設計の優秀さをうかがわせる。
 しかしイタリアが休戦するまでに製造されたのは戦闘機型16機、戦闘練習機型10機のみで、ほとんど使用されることなく終わっている。なお戦後に発動機を換装した機体が製作されており、イタリア空軍で1956年まで戦闘練習機として使用されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フィアット BR20チコーニャ爆撃機

フィアットBR20チコーニャ(コウノトリの意)の原型機(MM274)は、1936年2月10日に初飛行に成功した。
 胴体部分はジュラルミンと布張りの混合、主脚は車輪の一部が露出する半引き込み式であるなど単葉機への過渡期らしい設計ではあったが、ムッソリーニのファシスト政権は最新鋭の中型爆撃機として世界航空界へ向けて大喧伝しており、スペイン内戦でファシスト軍に味方したイタリア支援軍に所属する当機の活躍は宣伝を後押しするのに役だった。
 第二次大戦勃発時には当機の改良型であるBR20Mが就役し始めており、この新型機はベルギーにある基地から英国本土攻撃に参加した。
 日華事変が始まり中国奥地を爆撃できる機体が必要であった日本陸軍では、 九七式重爆撃機が実戦配備されるまでのつなぎとしてこのBR20を85機輸入、イ式重爆と名付けて使用していたが、日本陸軍航空隊の当機に対する評価は低く、九七式重爆撃機が使用できるようになり、機体と同時に輸入した交換用の部品が不足するとすぐに使用されなくなってしまっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ブラックバーン B-20試作飛行艇

旧式化していた沿岸哨戒飛行艇を更新するため、英航空省が示した仕様書R.1/36に基づいてブラックバーン社が開発した機体。同仕様書はブラックバーン社とサンダース・ロー社(サロ)の競争試作であったが、採用されたのはサロのラーウィック飛行艇だった。
 ブラックバーン社が提案した当機は、フロート式飛行艇と艇体型飛行艇の長所を両方とりこんだ機体として開発された独創的なもので、着水時にはプロペラ位置を水面から遠くに離しておけるフロート式として、また飛行中は空気抵抗の少ない艇体式として飛行できるよう変形するものであった。
 着水用の主フロートは胴体下に設置され、着水時には下げるが飛行時には胴体に密着するよう上げることができ、また両翼にある補助フロートも飛行中は翼端側へ折り畳まれ主翼の一部を形成するという合理的な設計がなされていた。ただし原型機には悪名高いRR社製バルチャーエンジンが搭載されたことから、この意欲的な機体の運命が決定づけられらた。1機だけ製作された原型機は補助翼の不備のため初飛行から1ヶ月もたたない1940年4月7日に海面へ衝突し喪われてしまった。
 原型機ではフロートの変形動作は成功しており、補助翼の改修と快調なエンジンさえ得られれば、英軍は失敗作ラーウィックに代わる機体を手に入れることも可能であったが、第二次大戦勃発によりブラックバーン社は既存機の生産に注力せざるを得ない状況となったため、当機の改良は中止となってしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

セスナ A/T-37

米空軍が使用していたT-28レシプロ中等練習機の後継機として開発された機体。米軍初の初等ジェット練習機としてセスナ社が開発したモデル318が元となっている。同時期に開発された英空軍のジェット練習機ジェット・プロポストと同様の並列複座操縦席という形態をした機体は、米空軍が高性能機を求めなかったことから後退角のない主翼や控えめなエンジン出力といった設計となっている。
 またベトナム戦争時代に、非舗装滑走路から出撃できる反乱鎮圧(COIN)機としてA-37ドラゴンフライという変形も作られている。軽攻撃機として使用するためエンジンは出力の高い物に換装されており、機首にはGE製ミニガンを搭載、翼下パイロンも強化・増設されている。
 米空軍では後継機として計画されていたフェアチャイルドT-46がキャンセルされたこともあり今後も使用される予定となっており、二十数カ国に輸出された機体も老体にむち打って第一線で活躍中である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ボーイング B-50

米陸軍が太平洋戦争末期に実戦投入した戦略爆撃機 ボーイングB-29は日本を完膚無きまでに叩きのめし、連合国軍を勝利へと導いた。だが兵器という物は常に性能向上を目指すものであり、このB-29も例外ではない。
 1945年にボーイング社はB-29の能力増大を目指して、標準型B-29Aの改修を開始した。この改修型原型に対して米陸軍航空隊は暫定的にB-29Dの名称を与えた。またB-29により大きい荷重搭載能力を備えるため、B-29に搭載していたライトR-3350エンジン(2,200馬力)よりも出力の大きいP&WワスプメジャーR-4360エンジンを搭載したB-29改修機もXB-44の名で飛行試験が開始された。
 これら改修機の試験結果による改設計を加えられ、新素材により軽量化された胴体を持つB-29Dを米陸軍航空隊は200機発注したが、太平洋戦争終戦により発注は60機にまで削減された。この新型B-29Dはエンジンや機体設計に大幅の変更があったため、新たにB-50と呼ばれるようになった。
 B-50は爆撃機としての寿命こそ短かったものの、空中給油機や偵察機として改修された機体は1960年代まで現役として生き残こり、ベトナム戦争を最後に退役した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サーブ 29 トンネン

第二次大戦終結直前から開発計画が開始された機体。計画の初期段階では英国デハビランド社のゴブリンエンジンを搭載した直線翼機として予定されていたが、大戦終結後にドイツから接収された後退翼の研究成果が入手できたことと、英国でより強力なゴーストエンジンが開発されたことにより、これらを取り入れた機体に再設計されている。後退翼機の開発は未経験であったSAAB社では、自社製軽飛行機(SAAB91サフィール)に後退角25度の主翼を付けての飛行試験を行い、それと並行してゴーストエンジンの生産ライセンスについての協議も実施された。
 当機原型機は1948年9月に初飛行を実施、片持ち高翼単葉の主翼は後退角付きで、ゴーストエンジンを国内ライセンス化したRM2Bエンジンを飲み込んだ太く丸い胴体が特徴ある機体として完成した。また、操縦室は与圧されており操縦士は射出座席に座るようになっている。
 1951年から部隊配備が始まり、1956年に生産が終了するまでに各タイプ合計で661機が生産されたが1958年頃から後継機である SAAB32ランセンの配備が始まると順次退役していった。退役した中古機体の一部はオーストリアに売却されている。
 ちなみに愛称である「トンネン」とは桶を意味するスウェーデン語であるが、この愛称は正式なものではなく、兵士達が付けたあだ名のようなものであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中島 九〇式艦上戦闘機

米国のボーイング社と言えば太平洋戦争中は大型爆撃機 B-29B-17の開発で、また戦後は大型旅客機やB-52爆撃機などを生産する大型機メーカーとして有名であるが、戦前のボーイング社は小型機、特に戦闘機メーカーとして優秀な会社であった。
 そのボーイング社が製造した戦闘機の代表がボーイングF4B(米陸軍型はP12)である。この機体は米国陸海軍が採用する以外に海外にも輸出されており、昭和5年(1930年)に当機の優秀性に目を付けた中島飛行機も研究用として輸入した。
 折から三式艦戦の後継機を模索していた日本海軍は、英国のブリストル・ブルドッグ戦闘機とボーイング戦闘機の長所を取り込んだ吉田ブルドッグ戦闘機を中島飛行機に試作(社内名称「NY」)させ、色々なテストを行ったが三式艦戦より若干の性能向上が見られただけに終わった。そこで中島飛行機ではボーイング機の特色を更に取り込んだ改修型機体(社内名称「NY改」)を完成させ、これが昭和7年に九〇式艦上戦闘機として制式採用された。
 ボーイング色の強い機体ではあったが日本人が設計した最初の国産艦上戦闘機であり、当時の外国主力機にもひけを取らない機体であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ドルニエ Do17/Do215爆撃機

1930年代中頃、ドイツのドルニエ社は『民間用高速郵便輸送機』の触れ込みで新型機を開発していた。この建前上は『民間輸送機』の原型が完成すると英国やフランスなどの周辺諸国は相当な不安を抱いた。その原型機は簡単に軍用(それも爆撃機)へ転用できそうだったからである。この原型機こそ後に『空飛ぶエンピツ』とあだ名を付けられたDo17原型機であった。
 高速性を発揮させるため極限まで絞られた胴体は乗客輸送には向かなかったが、主翼が肩翼配置であったため胴体中央に爆弾倉を装備することは簡単で、1935年に秘密裏に製作された爆撃機型原型(V4)は当時就役中の各国主力戦闘機よりも速く飛ぶことができた(このため生産型の設計時には速度優勢による防御兵装不要論も出たが結局防御兵装は搭載された)。
 1936年から生産に入った最初の量産型E型はスペイン内乱でコンドル兵団の爆撃機として初陣を踏んだが、スペイン上空の空中戦ではソビエト製戦闘機 ポリカルポフ-16に苦しめられたため防御兵装が改良されたZ型登場の引き金となった。
 第二次大戦の開戦時点では改良型であるDo217系列の機体が配備されつつあったが、一部の機体は東部戦線や地中海沿岸でまだ現役であったし、ユーゴスラビア軍所属機(ドイツがユーゴスラビアに侵攻した際にクロアチア傀儡政権に移管したが少数機がアフリカ方面へ亡命し英軍機として使用された)やフィンランド軍所属機(ゲーリングが贈ったもので対ソ戦に活躍した)も大戦で使用されている。
 Do17Z型の輸出モデルとして液冷のDB601エンジンを搭載した機体が1939年に製作され、Do215の呼称が与えられた。高性能液冷エンジンが搭載され、またエンジンカウルも空力学的に洗練されたので、最高速度や航続距離が上昇しZ型よりも優秀な機体となったため発注元のスウェーデンに輸出することは禁じられ、ドイツ空軍向けへ割り振られることとなった。また自国向けの偵察機型としてB-4型や夜戦型のB-5型も製造が行われている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

マクダネル・ダグラス 500MDディフェンダー

ヘリコプターメーカーであるヒューズ社が民間用モデルとして開発したモデル269は卵形の胴体を持った軽ヘリコプターで極度に単純化された機体であった。米軍はこの機体を初級操縦訓練用として調達している。
 このモデルから発展したのが観測ヘリであるOH-6カイユースと軽観測攻撃ヘリであるモデル500ディフェンダーである。特にモデル500はOH-6とそっくりな外見をしているが操縦席周りやエンジンなどは最新技術を盛り込んだ物で構成されており、赤外線前方監視装置などの装備と相まって非常に機敏な作戦行動が可能である。
 ヒューズ社は1984年にマクダネル・ダグラス社に売却され、現在はマクダネル・ダグラス社の子会社であったMDヘリコプター社のブランドで世界各国へ供給されている(その後マクダネル・ダグラス社自身はボーイング社に吸収された)。今後、500MDシリーズはノーター(尾部ローターを無くした形式)型ヘリコプターにスタイルが変わっていくものと思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

川崎 五式戦闘機

昭和18年、陸軍では三式戦闘機「飛燕」の機体製造が最高潮となっていたが、搭載する液冷発動機の製造は故障の多発や整備の難しさから遅れがちであったため、エンジンの無い機体の在庫を多数抱えることとなっていた。
 これを解決するために昭和19年、キ61の機体に空冷式の発動機(ハ112)を装備したところ、重量バランスが予想以上に良く空戦性能も向上したためこの機体を昭和20年1月に制式採用した。しかし、戦争末期で生産が進まず終戦までの生産機数は多くなかった。なお、戦争末期に採用されたため機体愛称はついていない(つける時間がなかった?)。
 三式戦闘機「飛燕」の胴体をそのまま流用した最初の生産型に続いて、後方視界を良くするため胴体後部を改設計し流線型の風防を装備した機体が製作されたが、こちらは99機製作されたのみとなっている。また、高々度での性能向上を目指して排気タービン付きエンジンを搭載した機体も計画されているが、原型機のみの製作で終わっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アミオ 143爆撃機

1928年にフランス航空技術局が発行した爆撃機仕様書に基づき、設計製作された昼間/夜間兼用爆撃機。仕様書に応えて当初製作された原型機はアミオ140と名付けられ、他社提出の機体とともに審査を受けた結果、採用が決まった。当時国内で「アミオ140が選定されたのは提出された機体のうち、この機体が一番醜かったからである」とまで揶揄された無骨な二層デッキ式ゴンドラの胴体に高翼配置の主翼、大きな泥よけをつけた固定脚の機体はお世辞にも洗練された設計とは言い難かった。
 フランス当局では当機に多座戦闘機や長距離偵察機としての役目をも果たすよう要求を追加したため、エンジンをイスパノスイザ製のものに変更したアミオ142とグノームローヌ製のものに変更したアミオ143が設計され、量産型として後者が製造されることになった。
 生産されたアミオ143は1935年から部隊配備が開始され、1939年の第二次大戦開戦時には5個飛行隊、約60機が配備を完了していた。ところが旧態依然とした固定脚爆撃機が活躍できる時代はとうの昔に終わっており、開戦直後の当機は宣伝ビラの投下が主任務であったし、フランス降伏直前まで夜間爆撃に従事したのみで、昼間爆撃はセダン地区ムーズ川の橋梁爆撃が唯一のものであり、この任務も出撃12機中生還1機という絶望的な結果に終わっている。
 休戦後に残存していた機体は第一線から退き、ビシー政府軍によって輸送機として使用されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ロッキード・マーチン F-22ラプター

米空軍のATF(次期戦術戦闘機)計画により開発された米空軍次期主力戦闘機。当初のATF計画では空対空戦闘を主眼とした制空戦闘機であったが、後に空対地攻撃能力を付与し航空阻止作戦にも対応できるマルチロール戦闘機となった。
 1986年に当機の原型であるYF-22と ノースロップYF-23の競争試作が決定し、1991年に当機が制式採用機として選定された。先行量産機は9機が契約され1997年に1号機が完成した。原型機と比べて主翼形状が台形から菱形に変更され、胴体の縮小や機首形状の変更など若干の修正が加えられている。高出力のF119エンジンはアフターバーナーを使用しない超音速巡航が可能で、機体素材もチタンや複合素材をふんだんに使用している。また、 F-117と異なったアプローチではあるがステルス性も配慮された機体形状となっている(ステルス性を保つため搭載ミサイルなどは胴体内に収納される。ステルス性を犠牲にすれば機外搭載も可能)。
 米空軍は2014年までに先行量産機を含めて348機の調達を計画しており、 F-15などに代わり21世紀の米空軍主力戦闘機として活躍が期待されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中島 三式艦上戦闘機

大正15年(1926年)に海軍は一〇式艦上戦闘機の後継機開発試作を中島・三菱・愛知の3社に対して指示を出した。そこで中島は英グロスター社のゲームコック戦闘機の艦上機改造型を、三菱は自社製の一〇式艦戦の改良型を、愛知は独ハインケル社試作機を提出した。
 各社とも海軍の要求性能を満たした機体であったが、三菱・愛知の両社が提出した機体には海軍が要求したとおり不時着水対策が施されていたのに、中島機にはこの対策が施されておらず、そのため重量が軽減されていたため軽快な運動性を持っていた。
 この軽快な運動性に目を付けた海軍は昭和3年に中島機を三式艦上戦闘機として制式採用したのだが要求されていた不時着水対策を施していなかったため、この採用には三菱・愛知両社から不満が出た。
 曲芸飛行にも使用されるゲームコック戦闘機の直系である当機の運動性は抜群で、射撃時の安定性も良く、上海事変で活躍した。日本海軍艦上機初の敵機撃墜も当機と 一三式艦攻が協同で挙げている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中島 特殊攻撃機「剣」(「藤花」)

 太平洋戦争末期に、日本の敗戦が濃厚となりながらも徹底抗戦を叫ぶ軍当局は少ない資源と資材で製作できる特攻専用機キ115の開発を中島飛行機に指示した。
 指示を受けた中島飛行機はわずか1ヶ月という驚異的なスピードで試作機を完成させ、終戦までに100機余りを量産したが、実際に特攻機として使用されることはなかった。
 発動機は製造の容易なハ115を採用、機体も貴重なジュラルミンなどは使用せず、木材やブリキ板などが使用され生産促進が図られていた。また主脚も当初は離陸後に切り離されるようになっていたが、訓練で使用するには危険なため簡易型の固定脚が取り付けられた。武装は機体内に半埋め込み式で取り付けられる爆弾のみで、軽量化・簡易化のため機銃は装備していなかった。
 なお海軍用として特殊攻撃機「藤花」の名称もあったが海軍では制式採用されていない。

※2005年6月2日追記
 当機の開発に携わった技術者・青木邦弘氏の手記(サイト 『古典航空機電脳博物館』内の『中島飛行機物語』に掲載されている記事『中島最後の飛行機「剣」誕生秘話』を参照)によると、この機体は元々特攻機として開発されたわけではなく、貴重な戦略物資を使用せず、また極力簡略化することで生産を容易とすることをポイントに開発された単座爆撃機であるとされている。設計に時間のかかる降着装置は省略し、帰還した機体を胴体着陸させることで貴重な発動機と操縦士は回収可能となるように考えられており、爆弾も投下可能なように設計されていたそうだ。
 だが、戦局の悪化から戦闘行動に不向きな練習機までを特攻に投入していたことや、熟練パイロットのほとんどが喪われてしまっていた状況を考えると、当機が量産配備されたとしても開発当初のプランである単座爆撃機として使用されることはまず無理で、人間を誘導装置として使用する『必殺必死』の特攻兵器として使用されたであろうことは想像に難くない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

エアロンカ L-3グラスホッパー観測機

1940年にアメリカ陸軍は複座観測機の競争審査を行い、スチンスン社の機体を O-49(後にL-1へ改称)の名で採用した。折しも欧州では第二次大戦が始まっており、観測機や連絡機といった機体の重要性が高まってきていたため、1941年に民間向け軽飛行機メーカーとして定評のあるエアロンカ、パイパー、テイラークラフトの3社から4機ずつの機体を購入して評価を行い、その年の終わりには多数の機体が制式発注されるに至ったのである。
 第二次大戦や太平洋戦争では幾多の戦場で着弾観測や前線偵察、拠点間の連絡、傷病兵の輸送など幅広い任務に従事しており、陸軍が調達した機体だけでは数が足りなかったため、民間が保有していた多数の機体も陸軍に徴発・使用されている。
 ちなみに良好な操縦性からグライダー操縦士の訓練用としても適任であるとして、無動力型も製作され、輸送・侵攻用グライダーの操縦士養成に一役かっている。
 軍用型の生産は最終モデルであるL-3Cを最後に1944年で終了しているが、発動機を強化した機体(モデル7チャンピオン。初飛行は44年中盤)がL-16の名で戦後アメリカ陸軍航空軍(後の空軍)に採用されており、朝鮮戦争やベトナム戦争などで使用されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »