ドルニエ Do17/Do215爆撃機

 1930年代中頃、ドイツのドルニエ社は『民間用高速郵便輸送機』の触れ込みで新型機を開発していた。この建前上は『民間輸送機』の原型が完成すると英国やフランスなどの周辺諸国は相当な不安を抱いた。その原型機は簡単に軍用(それも爆撃機)へ転用できそうだったからである。この原型機こそ後に『空飛ぶエンピツ』とあだ名を付けられたDo17原型機であった。
 高速性を発揮させるため極限まで絞られた胴体は乗客輸送には向かなかったが、主翼が肩翼配置であったため胴体中央に爆弾倉を装備することは簡単で、1935年に秘密裏に製作された爆撃機型原型(V4)は当時就役中の各国主力戦闘機よりも速く飛ぶことができた(このため生産型の設計時には速度優勢による防御兵装不要論も出たが結局防御兵装は搭載された)。
 1936年から生産に入った最初の量産型E型はスペイン内乱でコンドル兵団の爆撃機として初陣を踏んだが、スペイン上空の空中戦ではソビエト製戦闘機 ポリカルポフ-16に苦しめられたため防御兵装が改良されたZ型登場の引き金となった。
 第二次大戦の開戦時点では改良型であるDo217系列の機体が配備されつつあったが、一部の機体は東部戦線や地中海沿岸でまだ現役であったし、ユーゴスラビア軍所属機(ドイツがユーゴスラビアに侵攻した際にクロアチア傀儡政権に移管したが少数機がアフリカ方面へ亡命し英軍機として使用された)やフィンランド軍所属機(ゲーリングが贈ったもので対ソ戦に活躍した)も大戦で使用されている。
 Do17Z型の輸出モデルとして液冷のDB601エンジンを搭載した機体が1939年に製作され、Do215の呼称が与えられた。高性能液冷エンジンが搭載され、またエンジンカウルも空力学的に洗練されたので、最高速度や航続距離が上昇しZ型よりも優秀な機体となったため発注元のスウェーデンに輸出することは禁じられ、ドイツ空軍向けへ割り振られることとなった。また自国向けの偵察機型としてB-4型や夜戦型のB-5型も製造が行われている。

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BAC TSR2

1957年5月に出された英軍の統合作戦要求第339号により開発着手された超音速長距離攻撃機兼偵察機。先進的な慣性航法装置や地形追従レーダー、低高度での超音速飛行、高々度ではマッハ2を超える超高速を発揮し、できれば不整地滑走路から離着陸できる能力を持つ必要があるこの航空機に対して、英国内の18社あまりの航空機製造メーカーが設計案を提出したが、1959年1月にイングリッシュ・エレクトリック社とビッカース・アームストロング社に対して半々の役割で開発契約が与えられ(それぞれの会社の意向は無視された形となったが)、両社はBAC(ブリティッシュ・エアクラフト)社を新たに設立し開発にあたることとなった。
 搭載するエンジンは当初のロールスロイス製という選択が覆され、ブリストル・シドリ社の開発したオリンパスエンジンを搭載することになったが、これは超音速旅客機として有名なコンコルドに搭載されるエンジンの先行型にあたる。アスペクト比の小さい主翼に強力な吹き出しフラップを装備し、機体内の大半を燃料タンクとした当機は1964年9月に初飛行を行ったが、オリンパスエンジンの欠陥や降着装置の動作不良、複雑すぎる航法装置など不安定要素が多かった。この不安要素に加え開発費用の高騰化、労働党内閣による政治的圧力、比較的安価な F-111の購入計画(結局、F-111の開発も遅れに遅れ、機体単価も高騰したため、最終的に英空軍は バッカニーアの導入を決定した)などによりTSR2開発は頓挫してしまい、原型機数機が製造されただけで1968年に計画は中止されてしまった。

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ファルマン NC223爆撃機

最初は長距離爆撃機として計画されていたF223は1937年6月に民間向け南太平洋路線の長距離郵便機として完成した。このときにはファルマン社はフランス政府の軍需企業国有化により国有のSNCAC(Société Nationale de Constructions Aéronautiques du Centre)と統合されていたため、この機体はNC223.1と呼ばれるようになった。NC223.1は有償過重搭載時の飛行距離で世界記録を樹立し、たちまち名声を確立した。
 フランス政府はこの優秀な長距離機を当初の計画に立ち返り長距離爆撃機として完成させることにし、翌1938年にNC223.01と名付けた爆撃機型原型を初飛行させた。機体こそ若干の洗練を加えられたものの、非力なエンジンをナセルの前後に配置したことや翼弦長の大きな主翼などは旧式のF222.1に類似した機体であった。
 生産型機体の納入はドイツ軍の侵攻が始まった1940年5月から開始され、ごく少数機が旧型の機体と共に第15爆撃航空団で活躍、北アフリカ戦線などで使用された。また高速郵便機を目指したNC223.4もフランス海軍航空隊に徴発され、独ポケット戦艦捜索やベルリン爆撃などに参加したが、この機体はフランス降伏後に郵便輸送へと戻されている。

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レジアーネ

レジアーネ製戦闘機の最終形態として製作された機体。レジアーネ社の戦闘機に搭載されるエンジンは最初の Re.2000では星形エンジン、 Re.2001には列型エンジンを搭載し、 Re.2002で星形エンジンに戻され、当機は再度列型エンジンに戻ることになった。
 Re.2001に搭載されるはずだったDB601系よりも高性能なDB605系を搭載することで性能向上を目指し、機体構造も機首部の延長や主脚引き込み方式の再設計(メッサーシュミットBf109などと同様の外側引き込み式となった)等多くの手が加えられた(なお、他のイタリア戦闘機同様にドイツ製エンジンが調達できなかったため、生産型にはDB605系のライセンス品であるフィアットRA1050RC58ティフォーネが搭載された)。
 Re.2005サジタリオ(射手の意)原型機は1942年9月に初飛行し、総合的な性能ではイタリア最良戦闘機とまで言われたフィアットG55をもしのいでいたと言う。
 休戦直前の1943年7月から実戦配備された当機はシシリー島やナポリ、ローマ、シチリアなどの防衛戦で連合軍爆撃機相手に奮闘した。イタリアが休戦した後も北部イタリアにある工場ではドイツ軍の指示の元に当機の生産が続行されたが、連合軍の爆撃により工場が潰滅したため生産数はごく少数に終わった。これらの機体は休戦時に生き残りドイツ軍に接収された機体も含めて、ルーマニアの油田防衛やベルリン防衛などに使用されており、終戦間近にも廃墟のベルリン上空で連合軍機と空中戦を展開したと伝えられる。

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スーパーマリン シミター

1950年代初頭に英海軍が作成した仕様書N113Dに基づく機体。戦闘機としてだけではなく対地攻撃や偵察など多用途に使用できる機体として開発された。
 スーパーマリン社では直線翼を持つ機体や後退翼を持つ機体など、いくつかの試作機を自社負担で開発していたが、それらの研究成果と発見されたばかりの面積法則(エリアルール)を盛り込んで完成したのがタイプ544と呼ばれる機体であった。このタイプ544原型機は1956年に初飛行し、所定の性能を満たしていたため英海軍に採用(シミター(三日月刀)と名付けられた)となり、翌年8月に第700試験飛行小隊に生産型が配備された。
 機体重量の大きい当機を航空母艦へ離着艦させるという難問には、吹き出しフラップの装備で解決させており、低速時の操縦性の良い機体に仕上がっている。当機は英国海軍に対して戦術核搭載可能な攻撃機、空対空ミサイル搭載可能な迎撃戦闘機、空対地ミサイルや軽爆弾を搭載可能な近接支援機、長距離を飛行できる戦術偵察機と幅広い選択肢を与えたが、生産数は全部で76機と少なかった。
 1960年代になって バッカニーアが配備されるようになると当機は順次退役していった。

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エアロンカ L-3グラスホッパー観測機

1940年にアメリカ陸軍は複座観測機の競争審査を行い、スチンスン社の機体を O-49(後にL-1へ改称)の名で採用した。折しも欧州では第二次大戦が始まっており、観測機や連絡機といった機体の重要性が高まってきていたため、1941年に民間向け軽飛行機メーカーとして定評のあるエアロンカ、パイパー、テイラークラフトの3社から4機ずつの機体を購入して評価を行い、その年の終わりには多数の機体が制式発注されるに至ったのである。
 第二次大戦や太平洋戦争では幾多の戦場で着弾観測や前線偵察、拠点間の連絡、傷病兵の輸送など幅広い任務に従事しており、陸軍が調達した機体だけでは数が足りなかったため、民間が保有していた多数の機体も陸軍に徴発・使用されている。
 ちなみに良好な操縦性からグライダー操縦士の訓練用としても適任であるとして、無動力型も製作され、輸送・侵攻用グライダーの操縦士養成に一役かっている。
 軍用型の生産は最終モデルであるL-3Cを最後に1944年で終了しているが、発動機を強化した機体(モデル7チャンピオン。初飛行は44年中盤)がL-16の名で戦後アメリカ陸軍航空軍(後の空軍)に採用されており、朝鮮戦争やベトナム戦争などで使用されている。

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ウェストランド ホワールウィンド戦闘機

英国航空省が出した仕様書F37/35の要求に従って開発された機体。英国空軍初の単座双発戦闘機として1938年10月に原型機が初飛行したが、搭載エンジンであるロールス・ロイス社製ペリグリンエンジンの開発に問題が生じたため、部隊配備は第二次大戦開戦後の1940年6月にまでずれ込んでいる。
 大きな双発エンジンと細い胴体、十字型の尾翼が特徴的な当機は優れた運動性能と20ミリ機関砲4門の強火力を持っており、英国空軍の戦闘機部隊の一画を占め活躍できるだけの能力を持っていた。しかしペリグリンエンジンには開発時点から問題があり、RR社もマーリンエンジンの開発改良に力を注いだため、ペリグリンエンジンの改良は中止されてしまった。代替のエンジンとしてウェストランド社ではマーリンエンジンの搭載も計画したが、同エンジンは他機種への搭載が優先されたため、結局生産されたペリグリンエンジンを使い切ってしまう112機(+原型2機)で当機の生産は終了した。
 搭載エンジンの生産が打ち切られ、また単発戦闘機である ハリケーンスピットファイアが改良により当機と同等の火力を搭載できるようになったことから、当機の戦闘機としての重要性は薄れたため、一部の機体は主翼下に爆弾架を搭載する改修を受け戦闘爆撃機として任務に従事したが、これも ボーファイターが配備されるようになると英国空軍の当機への関心は急速に薄れて行き、当機は1943年には第一線任務から退くこととなってしまった。
 ちなみにホワールウィンドの名称は戦後に同社がライセンス生産した H-19ヘリコプターへ引き継がれているが、そのためネット検索などでは混同することが多く非常に紛らわしい。

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三菱 九七式重爆撃機

陸軍は昭和10年に三菱と中島に九三式重爆撃機の後継機試作を指示。そこで試作された三菱・中島両社のキ19を審査したが、性能に差がなかったことと政治的判断から機体は三菱、発動機は中島ということで改めてキ21の名称で三菱に発注された。しかし、機体設計に対して陸軍から多くの注文が付いたため、試作機を大きく設計変更した機体が量産型として部隊配備された。この量産型には三菱機の面影はなく、かなり中島製キ19に近いスタイルを持っている。
 日華事変中期から太平洋戦争全期間にわたって陸軍の主力重爆撃機として大活躍したが、重爆撃機としては、やや小型で爆弾搭載量や航続距離などに若干不足な点もあった(陸軍では航続距離を稼いだり搭載量を増やすことよりも速度を重視し、搭載量の不足は反復攻撃を行うことで補うよう考えていたようだ)が、陸軍の重爆撃機の中では最も生産機数が多かった。
 開発当時は高速を誇った当機も大戦後期になるとその速度で優位を保つことは不可能となったため、損害も多大なものになっている。
 また、日本航空では日満間の航路強化を目的として、陸軍から当機の払い下げを受け、輸送用に改造した機体を特急便として使用した(払い下げ機数は不明)。

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アエリタリア G91

1953年にNATOが示した新型軽戦術支援機の仕様に基づいてイタリアのフィアット社(後に航空部門はアエリタリアとして独立)が製作した機体。当時一線級戦闘機だった米国の F-86セイバーを一回り小型化したような機体で対地攻撃型のG91・偵察型のG91R・高度練習機のG91Tなど幅広い機体構成となっている。
 NATOの中ではイタリア、西ドイツが採用(ポルトガルも西ドイツの中古機体を使用している)、フィアット社(アエリタリア)の他に西ドイツ国内でも南部航空同盟(EUSメッサーシュミット、ドルニエ、ハインケルの3社共同体)によりライセンス生産された。
 また、エンジンを2基に増やし機動性を増した攻撃機G91Yもイタリア空軍に採用されている。なお、現在では各国ともほとんどの機体を退役させている。

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中島 特殊攻撃機「剣」(「藤花」)

太平洋戦争末期に、日本の敗戦が濃厚となりながらも徹底抗戦を叫ぶ軍当局は少ない資源と資材で製作できる特攻専用機キ115の開発を中島飛行機に指示した。
 指示を受けた中島飛行機はわずか1ヶ月という驚異的なスピードで試作機を完成させ、終戦までに100機余りを量産したが、実際に特攻機として使用されることはなかった。
 発動機は製造の容易なハ115を採用、機体も貴重なジュラルミンなどは使用せず、木材やブリキ板などが使用され生産促進が図られていた。また主脚も当初は離陸後に切り離されるようになっていたが、訓練で使用するには危険なため簡易型の固定脚が取り付けられた。武装は機体内に半埋め込み式で取り付けられる爆弾のみで、軽量化・簡易化のため機銃は装備していなかった。
 なお海軍用として特殊攻撃機「藤花」の名称もあったが海軍では制式採用されていない。

※2005年6月2日追記
 当機の開発に携わった技術者・青木邦弘氏の手記(サイト 『古典航空機電脳博物館』内の『中島飛行機物語』に掲載されている記事『中島最後の飛行機「剣」誕生秘話』を参照)によると、この機体は元々特攻機として開発されたわけではなく、貴重な戦略物資を使用せず、また極力簡略化することで生産を容易とすることをポイントに開発された単座爆撃機であるとされている。設計に時間のかかる降着装置は省略し、帰還した機体を胴体着陸させることで貴重な発動機と操縦士は回収可能となるように考えられており、爆弾も投下可能なように設計されていたそうだ。
 だが、戦局の悪化から戦闘行動に不向きな練習機までを特攻に投入していたことや、熟練パイロットのほとんどが喪われてしまっていた状況を考えると、当機が量産配備されたとしても開発当初のプランである単座爆撃機として使用されることはまず無理で、人間を誘導装置として使用する『必殺必死』の特攻兵器として使用されたであろうことは想像に難くない。

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